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逃げる太陽 ~俺は名無しの何でも屋!~

逃げる太陽 ~俺は名無しの何でも屋!~

一年で一番長い日 23、24

女の死体は最初から無かったかもしれない。その考えに俺はひとり首を振った。

それじゃあ、俺の見たあれは何だったんだ。あの血の量は・・・

「きゃっ」
テーブル席のほうで小さな悲鳴が聞こえたので、俺は反射的にそっちを見た。酒をこぼしたらしく、せっかくの桜色のキャミソールドレスが赤く染まっている。ボーイが影のように動いてその女性客におしぼりとタオルを渡していた。

「これ、ブラッディマリーでしょ。サイテー!」
頬をふくらませて彼女は怒っているが、基本的におっとりしているようで、ヒステリックではない。

「ゴメン。僕が手を滑らせたから」
おろおろと若い男が自分のハンカチで拭こうとして、彼女の友人に睨まれている。酒がかかったのがちょうど胸の辺りだから、そりゃ配慮が足りなかろう。

「注意力が散漫なのよ。グラスくらいしっかり持ちなさい。--だいぶ取れたから大丈夫よ。このジャケット貸してあげる。そのドレスよりちょっと濃い目のピンクだから、変じゃないわよ。」

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「あ、ありがとう。このリボン、かわいい~!」
酒をこぼされた方の女性客は、もう笑っている。
「Wテーラードでそうかっちりしすぎてないから、ちょうどいいかもね」
「センスいいね、君」
注意力散漫、と叱った男に、彼女はしらっと答えた。
「何言ってるの? ちゃんとこの子に新しい服買ってあげるのよ」

ひとしきりそのテーブルで笑い声が上がる。やれやれ、若いけど、オトナな娘たちで良かったよ。雰囲気悪くなったらこっちも酒が不味くなってしまう。

「一件落着、したみたいですね?」
汚れたタオル類をバックヤードに持っていくボーイを見ながら、俺はバーテンにこそっと囁いた。

「ご不快になられなくてよかったです」
バーテンもホッとしたようである。今のは店の責任ではないが、客によってはおかしな具合にゴネることもあるのだろう。

「そういえば、俺が三人でここで飲んだ日、後から女性が来たりはしなかったですか?」
俺は訊ねてみた。

「いいえ。後からお見えのお連れ様はいらっしゃいませんでした」
「そうですか・・・」

俺は溜息が出た。俺は確かにあの日、見知らぬ女と同じベッドで寝ていた。一緒にいたということは、その前に会っているということで。俺はそこをまるで覚えていないが、あんなシチュエーションになるには、何か理由と、そして意味があるはずなんだ。

俺にはそんな理由は無い。意味も分からない。ということは、俺以外の誰かにとっての理由、誰かにとっての意味、ということになる。

「えっと、この写真の男と、双子のように似ている男についてなんですけど。よくこの店に来るんですか?」

なんでこんなややこしい事態になっているのか、考えるにもパーツが必要だ。ジグソー・パズルのように。現実のパズルを前に、嫌いだとか苦手だとかは言っていられない。考えたくはないが、俺自身もそのパーツの一つであるらしいのだ。

「そうですねぇ。写真の方はひと月前と数日前の二回来られたことがあるだけです。そっくりな方はひと月前に一度だけですね」

「そうですか・・・」
俺はカウンターの隅に飾ってあるガラスの置物を見た。亀と龍の落し子。隣にある花は蓮か? 海のいきものと池の花。ミスマッチだがきれいだ。しかし、俺と女の死体のミスマッチは断じて美しくはないはずだ。

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ミスマッチ。あーやだやだ。俺は密かに溜息をつく。

なんでこんな刑事みたいなことをしてるんだろう。それこそミスマッチだ。平和な俺には似合わない。死んだ俺の双子の弟なら似合っただろうか。あいつは実際刑事だったわけだが、いわゆるキャリア組だった弟も、こんな聞き込みみたいなことをやってたんだろうか。

どうすればいいんだ、教えてくれよ。
俺は今はもういない弟に心の中で問いかけた。お前が生きていたら相談したのに。死んじまいやがって。グレるぞ、コラ。

なんてな。このトシになってグレるってどうよ? 酒も煙草もとっくの昔に認められた年齢で、何をどうグレるって言うんだ。あー、バカなこと言ってるなぁ。酔ってきたか? カクテル三杯程度で酔うわけない。逃避してるな、俺。

だって依頼主は怪しいし。笑い仮面だし。息子の行方を探して欲しいなんて言ってるけど、居所はちゃんと分かってるんじゃないのか? ってか、息子とグルになってるんじゃないか? 一体俺に何をさせたいんだろう? それとあの女の死体。こうなってみると、関係が無いというほうがおかしいのかもしれない。

ああ、もう、暗闇を手さぐりで歩いているみたいだ。

うなだれてグラスを弄んでいると、隣のスツールにふわりと誰かが座った。スカートをはいているから女だ。視線を上げていく。ブルーのドレスはこの店の照明に溶けてしまったようで、白い顔がより際立つ。白い、顔。

俺は椅子から転げ落ちそうになった。その女の、顔。

「こんばんは」
女は、唇の両端を綺麗に上げる。うつくしい女。あの部屋で、血を流して死んでいたはずの女と同じ顔。入念に化粧を施し、魅惑的な唇はキスを誘っているようだ。

俺が声も出せないうちに、女はバーテンに酒を注文した。ラフロイグ。バイオレット・フィズあたりが似合いそうなのに。

【OB】 ラフロイグ (10年) カスクストレングス

バーテンは小皿に小さなチョコレートを盛って酒と一緒に彼女の前に置いた。酒とチョコレートを合わせるのが彼のマイブームなのかもしれない。きのこ型のそれを一つ取り、彼女は俺にも皿を勧めた。美味そうだが・・・この女に勧められたチョコきのこを食べたら、この間見たホラーな映画のようにきのこ人間に変身してしまいそうだ。

東宝 マタンゴ

得体の知れない不気味さ。俺はぶるっと背中を震わせた。
ここは都会のど真ん中で、怪奇キノコ・マタンゴの棲む無人島ではないのに。


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